刻印づけと嗜癖症のアヒルの子
社会的愛着の原因をもとめて

  
ハワード・S・ホフマン 著
森山 哲美 訳

コンラッド・ローレンツのあとを、刻印づけられた数羽のガチョウのヒナが追いかけている姿は、印象深くわれわれに残っている。刻印づけの研究はその後どのように展開しているのであろうか?

A5判・160ページ 定価1,890[本体1,800円+税]
ISBN 978-4-86108-037-1 C3011 ¥1800E
2007. 2. 28  第1版 第1刷

もくじ
はしがき
謝 辞

第1章 はじめに
 ヒトに恋した七面鳥の話
 刻印づけの領域を拡張する
 研究の実際的な問題と日常的な問題
第2章 初期の研究
 刻印づけと強化
 反応パターン
第3章 不快な状況にいるときのアヒルのヒナ
 ディストレス・コールを測定する
第4章 刻印づけにおける反応随伴性
 情動的なディストレス・コールと操作的なディストレス・コール
 刻印づけと弱化
 くしゃみをする軽業ネズミの話
第5章 イギリスでの学会
第6章 刻印づけと食餌行動
 社会的に誘導された食餌行動
第7章 刻印づけの臨界期?
 神経組織の発達過程における臨界期
 予備的研究
 成長した鳥の刻印づけ
第8章 刻印づけと学習
 学習実験
 第2の刺激に対する刻印づけ
第9章 刻印づけにおける動機づけ基盤
 刻印刺激に対する「内的な要求」は存在するのか?
 理論構築のための取り組み
 対抗過程の理論(opponent process theory)を検証する
 関連する薬理学的研究
第10章 ようやく解決されたミステリー
 裏づけとなるデータ
 霊長類やヒトとの関係
第11章 嫌悪刺激
 ヒト以外の動物を実験で用いる
 基本的な技術
 実験結果とそれが意味するもの
第12章 攻撃と刻印づけ
 攻撃的動因?
第13章 刻印づけの文脈における社会的相互作用
第14章 オランダでの学会
第15章 ケンブリッジで過ごした1セメスター
 重要な違い
 刻印づけと神経系
第16章 理論に関する論評
 刻印づけは自己制限的な過程か?
 呈示学習か、それとも古典的条件づけか
第17章 さらなる偶然の巡り合わせ
第18章 未来に思いを馳せて
References
人名索引
事項索引
訳者あとがき



はしがき


 孵化直後のアヒルのヒナの行動と人の行動にはどのような関係があるのだろう? 1932年、Konrad Lorenzに刻印づけられた数羽のガチョウのヒナが彼の後を追いかけた。そのときから今日に至るまで、新生児の母親や医者はそれを問題にしてきた。Hoffmanは、Lorenzが言ったことが正しいのかどうか疑問に思った。彼は人の行動を包括的に理解したかった。他の実験科学者たちと同じように、人の行動を包括的に理解するという目標が達成されるには細かい作業が必要であるとHoffmanは信じている。細部を調べて複雑な事柄の全体像を理解する。これは、自然の運動について1500年間にわたって信じられてきたアリストテレス学派の見解をGalileoが覆した頃(1500年代頃)からの、実験自然哲学の信条である。Stephen Jay Gouldは、わずかな数の生き物を詳細に語ることで、何十億年という生物の進化をわれわれが思い描けるようにした。Roger Penroseは、長くて複雑な数学の定理を呈示して、意識についての概念を把握しようとする。Howard Hoffmanが望むことは、人の行動に関する現在のいくつかの定説を私たちが疑うことである。彼は、自分の研究を詳しく述べることでそれを試みた。彼の研究は、条件統制のなされた実験室での数十年間にわたるアヒルのヒナの研究である。Hoffmanは私たちを、彼の実験室へといざなう。気がつくとまるで私たちも、アヒルのヒナの飼育ケージの掃除をし、午前3時には実験室に戻って水を取り替えているかのようだ。これこそ、真の科学者が行っていることである。考える、計画を立てる、実験する、分析する、再考する、はじめにもどってまたやり直す。この繰り返しの過程が実験心理学である。それは、量子化学、神経生物学、核物理学でも同じである。私たちが、自分がなぜそのように行動するのかという動機をつきとめたいと願って偏見のない心で日々研究を続けている科学者であるとしよう。何ヶ月にもわたって自分の考えが間違っているにもかかわらず他人からもてはやされる。とても奇妙な出会い(くしゃみをするネズミなどの)がある。期待どおりにならない場合もあれば、その時代の「偉大な」科学者Lorenzからかなりこき下ろされたりする。セレンディピティー(serendipity; 掘り出し物を発見する能力)が重要だと気づいたりもする。そして最後に、ほ乳類のいくつかの行動的側面を少しでも理解できたのではと思ってみる。
 泣き叫ぶ子どもにどのように対応すればよいのだろう? 生まれたばかりの子どもが親とのきずなを形成するのに重要な時期があるのだろうか? このような疑問への回答として極端なものがある。それが正しいとする本や論文は多すぎるほどある。一方でこれと正反対の回答がある。それが正しいとする本や論文も多すぎるほどある。Hoffmanは、理論には2種類あって、それは間違っているものと間違いであることがいまだ証明されていないものの2つであるという格言を、私たちにわからせようとしている。私たちは、深く愛している人とどのようにかかわるのだろう? 相手と親密になれば、その相手を侮辱するようになるのだろうか? 相手がいないと心はますます相手に向くのだろうか? 私たちの行為は、私たちの遺伝子配列ではなく、私たちを取り巻く社会的な環境や物理的な環境によって決定されるのだろうか? Desmond Morrisが言ったように、あるいはRichard Leakeyが言ったように、私たちは生まれつき暴力的なのだろうか? 環境との関わりはアルゴリズム的なのだろうか? 私たちは部分の集まりなのか、それとも非線形力動説者たち(non-linear dynamicists)が唱えているように、この3000年間の哲学的考察は必ずしも正しくなかったのだろうか? 私たちが薬物嗜癖になるのは、脳や身体がそのようになっているためなのか? これらの問題が人の行動とどのように関係するかに関して、偏見のない心と数十年間にわたるアヒルのヒナの実験室的研究との合体によって、何が語られるのか? Hoffmanが望んでいるのは、読者が自分自身の結論を導くことである。
 複雑な事柄の全体像を教える教材が自然科学を取り扱った本である場合、教養ある読者の琴線にふれることはほとんどない。内容があまりにも難しすぎるか、あるいはその概念が見慣れぬものだからである。しかし、この本の背景は飼育ケージの中をうろつくアヒルのヒナである。この本に書かれている真の科学を理解するために読者はロケット科学者になる必要はない。この本は、実験心理学を学ぼうとしている人たちの心に訴えかけてくることだろう。実験心理学とはどのような学問かを教えてくれるからである。また、私たちの行動の原因を知りたいと思っている人たちにもふさわしい本である。

ブリン・モア大学
物理学教授
Peter Beckman



訳者あとがき

 刷り込みとして広く知られているアヒルやニワトリなどの早成性鳥類の行動過程は、実はその名が示すような固定的なものではなく学習過程である。原著者であるHoffman博士は、それを彼の著書で強調している。そして彼は、この過程を単に早成性鳥類だけでなく種の違いを超えて共通する発達初期の重要な行動過程ととらえ、それに関わる原理を実験心理学の視点から明らかにするために多くの研究の成果を紹介している。
 原書を私が知ったのは、それが出版されて比較的すぐであった。学部生のときから、慶應義塾大学名誉教授、故小川隆教授の指導のもとで刻印づけの研究を続けてきた私は、それを手にして読み終えたとき、「Hoffman博士も年をとったな」と、一面識もない彼に対して思った。彼の本は、単なる一研究者の回想録でしかなく、刻印づけについて学ぶべき新しいことはなにもないように思えたからである。しかし、それは大きな間違いであった。私自身が刻印づけの研究を進めていく過程で、原書を何度も読む機会を持ったが、読むたびに新たな発見があったのだ。
 自分の狭量と無知を恥じて謙虚な気持ちになって(なったつもりで)、彼の本をもう一度読み直した。やはり新たな発見があった。「自分の心理学」を、一人の心理学者が自分の人生と関わる中で問いかけてきた姿がそこにはあった。私にとっての問題は、もはや刻印づけを知ることではなく、一人の心理学者の生き様を知ることとなった。それをもっと知るためには、原著を訳すことが必要かもしれないと思った。
 翻訳という私にとって、とても困難な作業に従事したのは、原著の文章の一字一句に注意を向けながら訳すことで、Hoffman博士の研究人生をもっと理解できると思ったからである。またこの本で、Hoffman自身も述べているように、行動についての科学的な視点を多くの人に知ってもらうためにも、翻訳は必要であると思った。刻印づけは刷り込みとしてバラエティー番組などで紹介されることはあっても、その内容はきわめてお粗末である。本書で紹介されているSluckinの本の翻訳などはあっても、最近の研究成果を紹介している専門書はほとんどない。そこで意を決して訳すことにした。
 幸いにもHoffman博士と二瓶社社長の吉田三郎氏の許可を得て翻訳にとりかかったのであるが、私の拙い文章力ではこれはとても手に負えないと思い始めた。そうこうするうちに1年がたちHoffman博士から進捗状況を尋ねられ、あわててふたたび作業に取りかかった。できあがった草稿に吉田三郎社長をはじめ二瓶社の方に目を通していただいたところ多くの添削を受けた。それでもなんとか仕上げることができた。読み直して今なお不十分な点があるように思われるが、Hoffman博士の研究人生と行動の科学的視点については読者の方に理解していただける内容になっていると思う。
 ところでHoffman博士は、刻印づけの学習過程を古典的条件づけととらえているが、私はむしろオペラント条件づけととらえることができるのではないかと思っている。その視点は、慶應義塾大学名誉教授の佐藤方哉先生や私の先輩研究者である樋口義治氏、望月昭氏との共同研究で培われたものである。この視点の実証的な研究はいまだ十分とは言えないが、その土台になったのは、やはりHoffman博士の不朽の論文(Hoffman & Ratner, 1973)で紹介されている刻印づけの理論である。機会があれば私たちの研究も紹介したい。
 最後に訳者あとがきを終えるにあたって、この度の翻訳出版を快くお引き受けいただき、さらに私の拙い文章を懇切丁寧に校閲してくださった二瓶社社長、吉田三郎氏と編集部の駒木雅子氏、そして関係のかたがたに厚くお礼を申し上げます。
   平成19年元日

訳者 森山哲美


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