デカルトの出発

  
布施佳宏 著
世界を科学的に見るという方向を最初に示したのはデカルトであった。科学の時代にデカルト研究が発表され続けているのは、時代の問題の根本をそこに見いだすことができると思われるからなのかもしれない。
A5判・92ページ 定価1,260円[本体1,200円+税]
ISBN 4-86108-019-3 C3010 \1200E
2005. 3. 1  第1版 第1刷

目 次

 デカルトの出発
 デカルトの方法
 デカルトの形而上学

あとがき 

 今度二瓶社さんのご好意で,目次にあるとおりの3つの論文を書物にまとめてもらうことになった。最初の「デカルトの出発」から最後の「デカルトの形而上学」までのあいだには,十数年の時間が経過しているが,そんなことになった事情は後の論文の最初のところに記してある。もともとは,デカルトの『情念論』を扱ったものも書きあげてからのつもりだったが,昨年病気をして以来無理はしないことに決めたので,短時日に書き終えることはできそうにないから,さし当ってはあきらめることにした。かえりみれば30年ほど以前,息子に自閉症という障害があることが分かった。それで,あまり勉強のできない状態に置かれてしまったことが,このことにも影響している。いちいち説明はしないが物理的な問題も出てくるし,親は心理的にもかなりつらい状態に追いこまれるからである。息子が中学を終えるころにはかなり落ち着いて,ずいぶん楽になったが,humanismというものが定着していない日本という国にいるかぎりまだまだ問題が多いので,やはりどこかにひっかかりがあって,完全に平常心ではいられないので,自閉症に関する本を2冊翻訳したり論文を書いたりしていた。なんとか本業のほうに戻ったのが本書の最初の論文のころのことである。それ以後もだんだん楽になってはきているが,あの世に行くまでやはり息子のことが最大の気がかりであり続けるだろう。ちなみに,子どもが障害者であるということは,かならずしもシンドイことばかりではない。むしろそのために見えてくるものが多いので,筆者自体のものの見方にとっては,そのほうがずっと良かったと思っている。
 それに『情念論』について言えば,筆者にとってあまりにも馴染みがあり過ぎて,あまり書く気が起こらないという事情もある。筆者が学生時代に邦訳の『アラン著作集』が出版され,その著作集で『幸福論』など今でも文庫本で手に入るような書物を含めてアランのプロポ(語録)の著作の代表的なものを,大抵読むことができた。それらのプロポには,日本が過去に作りあげた道徳も含めた風俗が大きく変化していく時代において,少なくとも筆者にとっては欠かすことのできない生き方の指針が数多く含まれていた。そして,そうした指針を示す際にアランが主たるよりどころとしていたのが,デカルトの『情念論』だったのである。馴染があり過ぎるというは,そういう意味である。
 デカルトの形而上学から分かるのは,デカルトが我々の心を「思考実体」とし,身体(=物体)を「延長実体」とする把握である。ところが同時代人のエリザベット王女が指摘したように,異なる本質をもつ異なる実体がどうして人間においては合一して存在しているのかという疑問が生じ,次世代の哲学者たちに手渡されていく問題となるわけだが,デカルトはこうした矛盾には直接答えようとはせず,心身合一の次元は我々の生活の次元で行動(能動)の次元だと考えていた。『情念論』という書物には,情念という本来受動的な心理状態を心の能動的な状態に変化させることで,我々の生き方をより良いものに変化させようとする意図があった。俗に言う理性で感情をコントロールするということだが,これを常識のレベルをはるかに越えた実り多いものにすることが,『情念論』という書物の目的である。もっとも誰もが知っているこのコントロールは訓練をつんでも,なかなか容易にできることではない。人間においては心と身体とがまるで一つのものであるかのように極めて密接な関係をもっているからである。あるいは心と身体とが一つであるからである。身体が健康でも心になんらかのひずみが生じれば,身体のほうにも大きな影響が出,我々の生はしばしば困難なものとなる。そうした際には,みずからの心の状態を正確に分析すると同時に,アランがよくたとえに出した例で言えば「体操」,つまり身体をなんらかの形で行動させることを通じて身体そのものを正しく活動できるよう調整すれば,心自体の悩みが完全に消えさるわけではないにしても,心の状態もある程度改善されて,我々はよりよき生を楽しむ状態に戻りやすくなる。つまり生理学的知識を大いに活用しようというわけである。これが,身体が弱いうえ心にも悩みの多かったオランダに亡命中のドイツ人の王女のためにデカルトが書いた処方だった。これはアランもプロポでしばしば指摘したことでもあったし,筆者もこのやり方をなるだけ実行するように心がけ,益するところが大であった。そんな事情もあって『情念論』には主として若いときにアランを通じてにせよ,ずいぶんと親しんだので,なかなか論じる気持ちになれないということもあるわけである。

 本書の内容を簡単に振り返っておくと「デカルトの出発」で始まる文章では,デカルトの若年期以来の学問的半自叙伝のうち,学問の基礎である形而上学を完成するためにオランダに出かけるまでの期間を論じている。「デカルトの方法」は,もちろんデカルトの学問の方法の検討である。そして,最後の「デカルトの形而上学」はオランダに滞在して書きあげた『省察』という内省的な形而上学を,脳という視点をいれて読み直したものだか,すでに述べたように形而上学は,学問の出発点である。そういうわけで,本書のタイトルを『デカルトの出発』としても差し支えないと判断したしだいである。

 デカルトといえば,どうしても今年93歳で亡くなられた日本最初のデカルトの本格的な研究者だった京大名誉教授の野田又夫先生のことを思い出さざるをえない。しばらく京大でお世話になった後も,多分93歳で亡くなられる5年くらい前までは,大抵毎年夏休みの8月初めにお宅まで押しかけてはなんやかや話を聞かせていただいた。そしてデカルトのみならず哲学の見方全般についてもずいぶん多くのことを教えていただいた。学恩はまことに大である。深く感謝申し上げなければならない。
2004年11中旬
布施佳宏


著者紹介
布施佳宏 ふせ よしひろ
 1940年、大阪市に生まれる。京都大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程を修了。京都外国語大学教授。
 主要著書 「哲学への試み」(共著)以文社、A.ブローネ、F.ブローネ著「自閉症児の表現」(訳)二瓶社、など


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