スキナーの心理学
応用行動分析学(ABA)の誕生

  
ウィリアム・T・オドノヒュー / カイル・E・ファーガソン 著
佐久間 徹 監訳

スキナーの作り上げた行動の法則は生物の行動の予測と統制を可能にした。本書では心理学者スキナーの人と仕事を徹底、検討する。

A5判・312ページ 定価2,415[本体2,300円+税]
ISBN 4-86108-016-9 C3011 ¥2300E
2005. 12. 1  第1版 第1刷

もくじ

 日本語版へ v
 推薦  ジュリー・バルガス viii
 序文 xii
1.はじめに 1
2.B.F. スキナーという人 15
3.スキナーの背景 27
4.行動科学の哲学――徹底的行動主義 57
5.オペラント条件づけと実験行動分析 75
6.認知について 105
7.言語行動 123
8.応用行動分析 155
9.自己管理 171
10.行動科学による理想社会の建設 193
11.行動分析への批判 221
12.行動分析の貢献 241
13.スキナーの業績(原著のコピー) 261
 References 271
 付録:関連文献リスト 282
 索引 288
 訳者あとがき 292



日本語版へ


 関西福祉科学大学の佐久間徹教授が本書の日本語訳を出してくれることを、とてもうれしく名誉に思うとともに、その労力に感謝します。
 スキナーの貢献に国境は存在せず、行動主義と行動主義心理学は、いくつもの変遷を経ながら一貫して、アメリカを中心に常に人びとの関心事でした。行動主義の影響は、英国、アイルランド、ブラジル、メキシコで特に顕著だが、日本では、慶応大、日本大、駒沢大などほんの一部でしか支持されていない。1979年に行動分析学会(当初は行動分析研究会と称していた)が設立され、現在では400人以上の会員を伍していることは承知している。
 今日の心理学の趨勢は「文化」という概念を重視する方向を歩んでいるが、スキナーは、行動の一般原則に国境は存在しないことを見事に示している。強化の原理は、地中海の小さな村でもアメリカの養護学級でも、同じように適用できる。強化子などの刺激機能の詳細は、言うまでもなくそれぞれ異なるだろうが、3項随伴性はあらゆる人々に(動物にも)当てはまる。スキナーの業績を紹介した原著者のわれわれとしては、学生たちが人の行動とそれに対する介入手段として、この興味深い実り豊かなアプローチをきちんと理解することに本書が役立つならば、この上ない喜びである。
 本書執筆には次のような2つの事情があった。1つには、スキナーの業績はわれわれにとって、大きなメリットがあるにもかかわらず、そのメリットがしばしば十分に認識されず、解決できるはずの問題が放置されているように思われる。行動操作の技術を習得し、行動操作の知識を臨床現場に持ち込むことに関して、偏見と無知が蔓延している。応用行動分析は発達遅滞児(精神発達遅滞、自閉症など)の生活改善に大きな可能性を持っているのに、実際にはほとんど利用されていない。そのために、スキルを獲得せず、豊かな自立的生活からほど遠いところで停滞したままである。スキナーの業績がもっと普及し、もっと多くの指導者たちが関心を持ち、もっと成果を上げてくれることを切に望むばかりである。
 本書執筆の2つ目の事情は、スキナーに関するアカデミックな理解があまりにも貧弱で、残念ながら、ひどい誤解がはびこっていることである。学問に解説書は欠かせないが、解説書の多くがスキナーの価値を正当に評価していないことである。スキナーは、いろいろな意味で、革新的な思想家であり、その見解は確かに通俗心理学に馴染めないものかもしれない。だが彼の主張はもっと理解される必要があり、その見解が立脚している実験の意味合いももっときちんと理解されなければならない。こうしたことが理解されれば、スキナーは、20世紀の主要心理学者の一人だということが明らかになるだろう。
 原著者2人は、日本文化に大きな関心を持っており、たとえば、「禅」には、人間というものについて、また、よりよい治療家になるための多くの示唆が含まれている。煩悩、妄念の滅却を重視する禅は、心理療法のまさに神髄であり、心理療法の開発者たちの間で、禅が注目されている。たとえば、最近、「忘我の境地」が特に注目されている。しかしながら、やはりわれわれは、禅の解説書に関心を持たざるを得ない。禅の紹介者たちは果たしてその資格があるのだろうか? 禅の実践やその哲学の品質低下に加担しているだけではないだろうか? 禅の正しい理解は容易なことではない。しかしながら、禅は多くのことを提言しているとわれわれは考えている。こうした意味からも、われわれの本が日本語に翻訳されるのはとても意義深い。 まことに興味深いことに、よく読むと、徹底的行動主義と禅の間には、基本的な部分で共通している。まず第一に、両者とも反二元論である。人は、「こころ」(霊魂)と「からだ」(行動)の2つから構成されているとする二元論に反対し、徹底して一元論に立っている。第二には、人の行為そのもの、すなわち、オーバート(顕在的)な行動に注目し、思考とか感情ばかりにとらわれることに反対している。第三に、両者とも事象の相互関係を強調し、全体論に立ち、そして還元論を否定している。たとえば、行為は行為そのものに意味があるのではなく、その行為が生ずる条件が行動に意味をもたらすのである。言い換えれば、環境と行動がいかに相互に関連するかが禅および行動主義の中心になっている。
 スキナーのめざましい活動は、ほぼ20世紀という世紀に重なっている。本書は彼の生涯にわたる大きな成果とその哲学に注目して紹介している。いわば、スキナーの総合評論の書である。スキナーの業績、行動科学の理解を深めようとする読者に本書が触媒として役立つことを心から願っている。
        ウィリアム T. オドノヒュー
        カイル E. ファーガソン  


序  文
 
 本書を書いた目的は、自分たちが師の一人と定めた心理学者について、自分たちの理解を公表してみたかったからである。われわれは多くの理由からB.F. スキナーを学ぶべき先駆者だと考えている。その理由を整理して列挙してみよう。単純にして明快、隣接科学の重要な成果(たとえば進化論生物学)と矛盾せず、実験とデータに依拠し、強力な規則性が明らかにされている。そして、もっとも重要なことは、その応用が実社会の問題解決に大きく貢献していることである。この最後の点はさまざまな場面で具体的に見ることができるが、われわれが経験したもっとも顕著な例は、自閉症の(深刻な発達遅滞とコミュニケーションの困難を持つ)子どもたちの生活を大きく変えたことである。施設でほとんど植物同然だったものが、家庭で自立した幸せな暮らしができるまでに変わった多くの子どもたちを見ることができる。よく統制された環境下でこうした奇跡が起きていて、それは子どもたちが受けた行動療法の成果なのである。
 高名な20世紀の哲学者、バートランド・ラッセルは次のように言っている。

 わたしの人生を支配してきたのは、単純ではあるが、圧倒的に強い三つの情熱である―愛への熱望、知識の探求、それから人類の苦悩を見るにしのびず、そのためにそそぐ無限の同情である。
 こうした情熱が、ちょうど大風のようにわたしをここかしこと吹きとばした―気のおもむくがままに、深い苦悶の大海を越え、絶望の岸へと吹き寄せた……。
 最初わたしは愛をもとめた。なぜならばそれは陶酔をもたらすからである―その喜びがあまりに大きいのでしばしばわたしは、二、三時間の狂喜のために以後の全人生を犠牲に供しようとしたほどである。次に愛をもとめたのは、愛は寂寥を救ってくれるからである―すなわち、意識もたえだえにおののいて、世界の果ての冷たい底知れぬ、いのち無き深淵をのぞく恐ろしい寂寥をである。最後に、わたしが愛を求めたのは、愛の結びのうちに―その小さな神秘の世界のうちに、聖人や詩人が想像してきたところの、そして自分もつとに胸にえがいていたところの天国のヴィジョンを現実に見たからである。これこそがわたしがもとめたところのものである。そしてこれこそが、人生にとってのあまりに良すぎるように思われるけれどもとうとうわたしが発見したところのものなのである。
 それと同様の情熱をもってわたしは知識を探求した。わたくしは人間の心を理解したいとねがって来た。星は何故輝くのかを知りたいと望んできた。そうしてわたしは、数が流転を支配するというピタゴラス学説の威力を理解すべく努力して来た。その幾らかを―ほんの少しではあるけれどもわたくしは為し遂げた。
 愛と知識は、その可能なる限りでは、高く天国に達した。しかしいつも憐憨の情がわたしを地上にひきもどした。苦悩の叫びが反響して、わたしの胸にひびくのである。飢えに泣く子供たち、圧迫者に苦しめられる犠牲者たち、息子から重荷として嫌われるよるべなき老人たちや、それから孤独と貧困と苦痛の世界全体が、人生というものがどのようなものであるべきかということを冷然と愚弄するかのように、社会の現実として厳存しているのである。わたくしはこの社会悪を減らしたいと切望する。しかしわたしには出来ない。そしてわたしもまた苦悩する。これが今日までのわたしの人生である。わたくしは、この人生を生きるに値する人生だと思っている。そして、もしチャンスが与えられるならば、もう一度喜んでこの人生を生きようとおもう。(Russell, 1951, pp.3-5、「ラッセル自叙伝Ⅰ」日高一輝訳 理想社 1980 第9刷 p.7)

 われわれは、スキナーの心理学がこの啓示に富む引用に含まれている精神を具現化するものだと考えている。
 しかし、他の心理学者らの業績を無意味だなどと言っているのではない。本書では、スキナーに関して要約を紹介し、検討しているが、同様に取り上げるべき心理学者が他にも多数いる。それはわれわれにとって、次の課題である。本書の著述の第一の目的は、一人の心理学者をとことん検討することである。
 科学は必然的にある種の争いになる。多くの点で、スキナーの研究業績は卓越している。そして、多くの反論のあることも十分承知している。読者は一応、本書の終わりまでこの問題に関する判断は保留してほしい。偏見は好ましいことではない。人種や宗教における偏見と同様に知的なことにおいても偏見が存在する。B.F. スキナーには、多くの偏見がある。大概の偏見がそうであるように、それらは、誤情報や早とちりや軽薄な判断によるものである。本書を結論まで読めば、読者はスキナーの業績の真価が見えてくるはずである。かといって、われわれは、スキナー心理学を祭壇に掲げて祭るわけではない。誤りを犯さない神様だなどと思っているわけではない。かつて、スキナーの後継者たちはドグマに陥り、彼を現人神(あらひとがみ)のように崇めた。人間は弱きものであり、それぞれの動機から科学者を目指し、自分の興味に基づいて研究をするが、人によっては、冷静な合理性を欠いたり、一方的に正しいと思いこんだり、研究の目的が、学派のメンバーになりたいとか、その他ごく低俗な理由に基づくものであったりする。こうしたレベルの考えでは真理に近づけない。
 われわれは、スキナーは多くの法則を明らかにする実験パラダイムを作り上げていると思っている。これこそが科学の目指すものであろう。本書で紹介する彼のパラダイムは、他のどんなパラダイムよりもはるかに適切に行動の予測と統制を可能にしてくれる。けれど、けっして人を魅了しない。スキナーは、夢が性衝動の表れだとか攻撃衝動の象徴だなどとは言わない。むしろありきたりのことしか言っていない。そして、親が自閉症のわが子の発達遅滞の悩みでやって来たら、8歳の子がひどい引っ込み思案で、その上、おねしょのためにキャンプに行けないと訴えて来たら、求められていることは、リビドーがどうとかでなく、問題の解決なのである。スキナーのパラダイムはそれを提供してくれる。
 原著のThe Psychology of B.F. Skinner というタイトルを奇異に感じる人がいるかもしれない。それは次のような事情による。(a)psyche とは、精神とか心の作用を意味し、スキナーはこうしたことばを否定しているし、ology、すなわち“学問”の意味だが、このことばにも賛成していない。(b)彼は自分のパラダイムにpsychology ということばをほとんど使わず、行動科学、行動分析、実験行動分析という表現の方を好んだ。われわれも同じ見解である。スキナーは、多くの心理学者と同じように生活体の行動に最大の関心を持っていた。彼以外の心理学者たちは、行動理解にまったく別の説明原理を使い、スキナーの見解ではどうでもいいような疑問(自己評価がなぜ神経症の原因になるか、など)を問題にしているけれども、究極的には、いずれも心理学の根本疑問なので、“Psychology”とした。 本書の刊行を助けてくれた多くの人たちに感謝しなければならない。特に、ジュリー・バルガス、シドニー・ビジュー、アーニー・バルガスには、初期段階の原稿にコメントをいただき、感謝いたします。われわれの知識不足から多くの欠陥があったが、いただいたコメントのおかげでずいぶんと改善された。編集アシスタントのクローディア・アヴィナ、ミッシェル・パスカルには特に感謝したい。本シリーズの編者、レイチェル・ハイル・バセットから、教科書としての多くの有益な助言をいただき感謝します。the Journal of Behavioral Education, Vol.6, 1996の“Skinner on Cognition”の論文を転載した。ご許可いただいたことに感謝します。最後に、家族たち、ジェーン、カイト、アンナ、ロビンの協力と激励に感謝します。


訳者あとがき

 心理学の分野はすっかり認知一色に塗り替えられ、スキナーだ、行動分析だなどと言うと、時代遅れに思われてしまう。しかし、現場の問題解決場面では、たとえば特殊教育、障害児療育、子どもの不登校をはじめさまざまな不適応行動、社会福祉の各現場、こうしたところでは現在、問題解決にもっとも実績を上げているのは、認知関係ではなく、応用行動分析である。日本では、ABA(Applied Behavior Analysis)と略称で呼ばれ、自閉症児指導では、TEACCH(Treatment and Education of Autistic and Related Communication Handicapped Children)のプログラムとシェアを争う対立関係になっている。TEACCHもその基礎には強化の随伴操作という考えがあり、根幹ではつながっているはずだが、一般には対立するものと見なされている。いずれにしろ、いろいろな分野で行動分析が現場の問題解決に貢献しているにもかかわらず、その手続きが機械的に模倣されているだけである。基礎理論や本書で紹介しているような行動分析のフィロソフィはほとんど理解されていない。現場の仕事は問題解決が最優先であり、それが加持祈祷であれ、まじない、迷信のたぐいであれ、何だって役に立つものであればOK というところがある。機械的模倣で実績が上がるのであればそれはそれでいいのだが、行動分析には、多数の実験の裏付けがあり、背後に問題理解のためのフィロソフィが存在する。応用行動分析の問題解決能力をさらに強め、向上しようとすれば、きちんとその背後の理論やフィロソフィが身に付いていなければならない。そうした方向へ目を向ける格好のテキストが本書である。
 本書の翻訳は、私が現在所属する関西福祉科学大学の大学院生たちの要請がきっかけである。私の方針として、できるだけ個々の学生の興味と関心を優先させ、無理に自分の専門分野へ引き込まないようにしている。福祉系の大学なので、学生たちは、学部の時に、かなり長期にわたる福祉現場の実習体験を持っている。そうした現場で、インクルージョン、クオリティオブライフ(QOL)などの理想論と現場の現実との間の矛盾に直面する。徘徊癖の高齢者にどう対処したらいいのか、コミュニケーションが困難な障害児や境界線児にどう対処すればいいのか、どうすれば多動児が落ち着いて椅子に座れるようになるのか、現実の問題解決に一番敏感なのが彼らである。その彼らが、もちろん全員ではないが、応用行動分析のいろいろな断片に触れ、少しばかりの実践例を経験し、強く応用行動分析に惹かれるようである。学生の興味関心優先方針と私の怠惰とが重なり、学生たちに系統だった講義をせずにいると、インターネットの検索で見つけてきたようなのだが、本書の英語版を持参し、これで講義をしてほしいと注文を言ってきた。講義に先立ち、それではと読んでいるうちに、学生たちは、対応に困っている問題行動について、こうした基本姿勢の認識こそが、今の福祉現場に一番必要な気がする。この本の翻訳書が出せないだろうかとも言ってきた。長く付き合っている二瓶社の吉田三郎氏に翻訳の話を持って行くと、翻訳権を取得し、出版を引き受けてくれた。こうして本書の刊行が実現の運びになった。
 それにしても、高齢者や障害者(児)をもっぱらの対象にしながら、福祉の分野で、どうしてこうもカタカナ語が氾濫するのだろう? 先に挙げたインクルージョン、クオリティオブライフをはじめ、ゴールドプラン、グループホーム、ケアマネジャー、ソーシャルワーク、数え上げたら数ページの分量になるだろう。女性のファッションや化粧品なみである。金鉱脈を発見しようという計画かと勘違いしそうな名前や、グループのホームなんだから集合住宅のことかと思いきや、じゃないようだし、毛がアッと驚くほど少ないマネジャーということでもないらしい。本書もこの滑稽な流れにカタンするきらいがないとは言えないが、かといって、エスカレーターを電梯子、タクシーを的士、テレビ局を電視台とする方がいいというわけでもないだろう。日本語に該当することばがない場合に、外国語をカタカナ表記するのは日本の伝統の一つと考えられなくもない。だが、reinforcer に、強化子、強化因、補強子、好子、リインフォーサーと一つのものに複数の名称が錯綜するのは、さらに困りものである。日本語がどうあるべきか? たぶん、時の経過に従って、落ち着いた洗練された適切な表現に収斂していくのだろう。こうしたことには時間が必要なのであろう。本書の訳語は、「メイザーの学習と行動――日本語版第2版――」(ジェームズ・E・メイザー著、磯博行/坂上貴之/川合伸幸訳、二瓶社、1999)に従っている。というのは、学生たちがこの本によって応用行動分析を、学習理論というもう少し広い範囲で勉強しているからである。基礎の学習理論をきちんと学びたい人たちに、きわめてわかりやすく臨床に関連させながら解説されているので、イチオシ(これもカタカナ語?)の本である。
 次の各章は、学生の訳に私が手を入れたものである。したがって、文責は私自身なのだが、分担者が私の原稿を全章にわたって何度も読み返し、文章の間違いや重大な誤訳を救ってくれたり、ダリの絵画の日本語名を調べたりしてくれた。訳者として付録に関連文献リストをつけ加えた。酒井亮吉が作った。

第2章  酒井亮吉 関西福祉科学大学大学院卒 子供の城協会療育センター
第3章  小野  真 関西福祉科学大学大学院卒 キリスト教ミード社会舘
第5章  小西弾未 関西福祉科学大学大学院卒 あぜくら福祉会尼崎あぜくら作業所
第6章  岸本雅志 関西福祉科学大学大学院卒 朱鳥会たかとり保育園
第7章  高城  大 関西福祉科学大学大学院卒 堺支所堺保健福祉総合センター生活援護課
第8章  高城  大        同上                同上
第10章 小野 真        前出                前出
第11章 小西弾未        前出                前出
第12章 酒井亮吉        前出                前出

 翻訳に取りかかって、脱稿まで、ほぼ2年もかかってしまった。福祉系の大学の多忙さも原因の一つだが、持病の蕁麻疹の悪化のためだった。原著者のO'Donohue さん、Ferguson さんから、再三、e-mail で催促をいただいた。脱稿にこぎつけ、大きな借金が返済できたような気分である。日本語版への序文をいただいた原著者のお二人、出版を引き受けてくれた二瓶社の吉田社長、それに日本人にはわかりにくい英語表現の訳を助けてくれたエミーズ外国語学院のジョシュア先生にこの場を借りて感謝します。
         2005年5月
         佐久間 徹


二瓶社 ホームページへ戻る