「教えない」教育
徒弟教育から学びのあり方を考える

  
野村幸正 著
B6判・208ページ 定価1449円(本体1,380円+税)
ISBN 4-86108-006-1 C3037 \1380E
2003. 10. 10 第1版 第1刷

 現在の教育の直面する諸問題は、学ぶことの意味を見いだすことも難しい学校教育にその一因があるかもしれない。徒弟教育のようにあえて教えないことで、学ぶ力を取り戻させることができるのではないか。徒弟教育を教育心理学、認知心理学の枠組みでとらえ、教育のあるべき姿を提案する。


目 次

はじめに                           
目次                            
序章 いま、何故に、徒弟教育か                
第1章 生きること・学ぶこと
第2章 徒弟教育                       
 ・  参加としての学び
  1 正統的周辺参加
  2 盗み取る
 ・ 技術、技能、そして技法
  1 知識観
  2 知性的技能
第3章 徒弟の学び                      
 ・ 模倣から創造へ
  1 「教えない」ことの意味
  2 内弟子制で何を伝え、学ぶのか
  3 ギャップの認識と解消への努力
  4 評価の不透明さ
  5 解釈の努力とは一体何か
 ・ 徒弟の知
  1 徒弟の知とは
  2 創意工夫
第4章 学校教育                       
 ・ 二元論と教育
  1 知識と技能
  2 言語から身体へ
  3 選択能力を育てる
 ・ 注入主義
  1 因果関係
  2 外発的動機づけ
  3 学力保障
第5章 徒弟教育からみた学校                 
 ・ 学校教育に何を求めるのか
  1 教育を論じて
  2 ほんとの人間
 ・ 徒弟教育からの示唆
  1 何を伝えるのか
  2 「教えない」という力量
  3 教師の力量とは
第6章 経験の普遍化                     
 ・ 理論から人の働きへ
  1 深い理解
  2 脱学習と人の働き
  3 日常性を突き抜ける
 ・ 「私」の働き
  1 「私」の科学
  2 未知の構想
終章 実践への提言                      
参考文献


はじめに

 それぞれの社会のあり方にふさわしい教育があってよい。近代社会では学校教育が、また伝統社会では徒弟教育が幅を効かせている。徒弟教育は実践共同体における教え−学ぶものの双方的な関係を重視したものであり、またわかることとできることを不可分のものとしてとらえている。たとえば、仕立屋の共同体に入った徒弟は最初は掃除をしたり、ボタン付けをしたりするうちに、徐々に仕上げ、縫製、そして裁断といった中心的な仕事をまかされるようになる。徒弟が学ぶことはいつも具体的な、個別のことではあるが、その学びを介して仕事の背景にある「わざ」を身につけている。「わざ」の核心は容易に言語化されるようなものではなく、また極めて伝えにくいものであるが、徒弟はそれを確実に学んでゆく。
 実践共同体に身をおく徒弟は、一方ではその場に厳しく制約されながらも、他方ではその制約を克服するなかで、それを支援に変えてゆく。徒弟は支援と制約のなかでの個別の体験をそのつど意味づけし、それらを普遍的経験にまで高めている。これら一連の過程は徒弟自身が能動的に学ぶものであり、他者から教えられるものではない。また、師匠の方も徒弟が身につけるべきことを容易に教えることができないことを熟知しているからこそ、それを「教えない」のである。徒弟教育が「教えない」教育と呼ばれるのはこのためである。
 一方、学校教育は近代の知のあり方と密接につながり、したがってそこで教授されることの多くは状況から切り離された、極めて抽象化された知識である。しかも、近代社会ではその知識を子どもたちの頭に注入することが教育であり、またそれが教師の使命であるという考えが根強くある。この意味で、学校教育は個体能力主義的な教育、学習観の上に成り立っているといってよい。
 そもそも、双方の教育に優劣があるわけではない。また、教え−学ぶ過程には双方の教育の目指すところが深くかかわり、本来ならば相補的なものなのであろう。ただ、学校教育はその教授のあり方からして、本質的には教えられることしか教えない教育である。それだけでなく、教えるべきことが学ぶものとは無関係に設定されることから、必然的に過剰教育に結びつく可能性を内在している。しかし、状況から切り離されたそれらの知識は学ぶものの関心、能力とは無関係に一方向的に与えられることから、子どもたちは学びを実感としてとらえることができず、また学ぶことの意味を見いだすことも難しい。これが学力低下、学級崩壊などの教育の病理現象を生み出している一因ではないか。
 本書は、いまなお機能している徒弟教育のあり方を、またその意味をインド、そして日本の現状を介して学ぶなかで、教えることが逆に学ぶものの意欲を削ぎ、それが教えることをいっそう難しくしている現状を直視したものである。いま、われわれに求められていることは過剰に教えるのではなく、あえて「教えない」ことで、学ぶものの身体に備わった瑞々しい感覚を、学ぶ力を取り戻させることではないか。
 本書の基底にあるものは、一つは徒弟教育への憧憬であり、いま一つはインドでの自らの経験である。いずれも自らの個人的体験と深く結びついたものである。徒弟教育は私の専門である認知科学、なかでも熟達化、「わざ」の形成に、またその実践である私の仏像彫刻の修行に深くかかわっている。近代化のなかで、もはや徒弟教育は時代遅れの観すらあるが、その本質を見極めれば、そこには瑞々しい感覚が、さらには人の働きが厳然としてあることが感じられるはずである。一方、インドは私に近代教育のもつ光と影を痛感させた場所でもあり、学びのあり方と生きることの意味を深く考える契機となったところでもある。
 私は、徒弟教育およびインドという二つの鏡に映し出された日本の社会、なかでも教育の現状を直視し、また近代社会が抱えるさまざまな問題の深層部に眼を向け、そこから教育のあるべき姿を模索してきたのである。これらの体験は、少し大げさに言えば、いずれも「時」と「場」を限定した私自身の学びの実践である。
 ところで、伝統的な教育ではいまなお「教えない」教育という表現が用いられているが、教育という営みが教えることであるとすれば、この表現は明らかに矛盾している。この矛盾を踏まえて、「教えない」教育の意味を現在の教育心理学、認知心理学の枠組みでとらえ、新たな研究領域を切り拓かれたのが、いまは亡き元京都大学教授梅本堯夫先生である。学会などでご指導いただいたことを深く感謝して、本書を『「教えない」教育││アジアの徒弟教育に学ぶ』と命名した次第である。
 本書を上梓しえたのは、ひとえに私の在職する関西大学の自由な学問的雰囲気に負うところが大きい。一年余にわたるインド滞在をはじめとして、その後もことあるごとにインドを体験しうるのは、ひとえにわが大学の懐の広さであろう。私はインドでの体験を契機にして教育を、心理学を幅広い視点からとらえることができるようになったと自負している。また、私の師である関西学院大学名誉教授石原岩太郎先生、関西大学大学院の院生諸君、なかでも増田節子さん、森田泰介君には貴重なご意見をいただいた。また、私の仏像彫刻の師匠である矢野公祥仏師からも実に多くのことを学んでいる。最後になったが、出版に際しては私の畏友であり、二瓶社の社長である吉田三郎氏には随分お世話になった。ここに記して感謝の念を表わしたいと思う。

著者紹介
野村幸正 のむらゆきまさ
1947年生まれ 関西学院大学文学部卒業 同大学院修了 現在関西大学文学部教授
認知心理学専攻 文学博士 1987〜1988、インドのプーナ大学へ留学

著書
 『現代基礎心理学 4 記憶』東京大学出版会(分担執筆、1982)
 『心的活動と記憶』関西大学出版部(1983)
 『漢字情報処理の心理学』教育出版(海保と共著、1983)
 『サバイバル・サイコロジー』福村出版(井上と共著、1985)
 『知の体得──認知科学への提言』福村出版(1989)
 『関係の認識──インドに心理学を求めて』ナカニシヤ出版(1991)
 『認知科学ハンドブック』共立出版(分担執筆、1992)
 『生きるもの・生きること──新・心理学試論』福村出版(1992)
 『かかわりのコスモロジー──認知と臨床とのあいだ』関西大学出版部(1994)
 『臨床認知科学──個人的知識を超えて』関西大学出版部(1999)
 『行為の心理学──認識の理論−行為の理論』関西大学出版部(2002)

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